「………今回ばかりは、本当に危険な状態だと云わざるを得ませんな。
今年いっぱい、もつかどうか……ご覚悟だけは、されておいた方がよいでしょう」
「そう、ですか………解りました。
ありがとうございます、南條先生。年末のこのお忙しい時期に、何度もお越しくださって」

右代宮蔵臼と妻の夏妃が、揃って頭を下げる。
そして、いやいや構いませんよと微笑みながら手を振った老医師……南條輝政に向けてもう一度感謝の言葉を口にした。自身の経営する医院をすべて息子に譲ったとはいえ、何だかんだと手伝いに駆り出されている南條の多忙さを知っている蔵臼たちにとって、事あるごとに本土からこの島に呼びつけることは常々心苦しく感じていたことだったから。
しかし南條は、どんなに理不尽で突然な呼び出しにも嫌な顔一つせずに応じてくれる。何時もの人を和ませる、あの柔和な笑顔でこの島に来てくれる。うちの親父殿に南條先生の爪の垢を煎じて飲ませたいですよと軽口を叩く蔵臼に、あの人の自分勝手さは死んでも治らないでしょうなとやり返す南條。思わず吹き出してしまう夏妃。つい先刻まで人の生き死にを真剣に話していたとは思えないほどに、この応接室には柔らかな空気が漂うのだった。

「さて……そろそろ船の時間ですかな。それでは蔵臼さん、私はこれで」
「今日もありがとうございました。また何かありましたら、すぐに連絡しますので。
夏妃……先生を船着き場までお送りしてくれないか」
「はい、わかりました」

最後に深々と一礼してから、南條は夏妃と共に船着き場へと去っていった。
………玄関先で見送る蔵臼の口から漏れる、白い息。鉛色の空を見上げ、今夜は降るかもしれないなと呟く。その口元は南條と軽口を交わしていた時とは打って変わって厳しく結ばれていた。
そして、彼は見上げる。
この巨大な屋敷の2階。緑に覆われたこの島と何処までも青い海が見渡せる部屋。
厚いカーテンが引かれ、中の様子は見えない。
死を目前にした老人がひとり、静かに横たわっていること以外は、何も。
―――あの人は今、何を考えているのだろう。
何を思っているのだろう。
人生の終わりの日々を、あの人は今、どんな気持ちで。


「父さん」


その小さな声は吹き荒れる北風にかき消され、何処にも、誰にも、届かなかった。







旅を終えるそのときに







「―――はい、解りました。くれぐれも皆さんにご迷惑をかけないようにしなさい?」

ふうと溜め息を吐きながら、夏妃が受話器を置く。
ソファにもたれながら新聞を広げていた蔵臼の耳にも、不安だわと顔に書いてあるような風情の夏妃の声は届いていた。妻がここまで心配そうな声を出すことは一つしかないのだが……このまま無視するのも空気が悪いしなと考え、一応訊いてみることにする。

「朱志香から……今日は雪で飛行機が飛ばなくなったから、友達の家に泊まるとのことでした。あの子、お友達に迷惑をかけなければいいんですけど。自分勝手でがさつで……ああ、心配です」
「おいおい、少しは娘を信用しないか。あの子だってもう18なんだぞ? 大丈夫だよ」
「そうなんですけど……まあ、お泊りといっても、女の子だけですしね。
嘉音は福音の家でのんびりしているとのことですし、何も心配ありませんわね」
「………そ、そうだな。嘉音とは一緒じゃないからな。あくまで友達と泊まるだけだからな!! 安心したまえ、は、ははは………」

ぽんぽんと妻の肩を叩きながら、優しく諭すように語りかける蔵臼。
しかし夏妃の口から洩れた「嘉音」という単語に、彼の背中やら顔からはだらだらととめどなく冷や汗が流れ出るのだった。
(朱志香は嘉音……いや嘉哉くんとデートに行っているなど云えぬ……夏妃に知られたら、どんな惨劇が待ち受けていることかッ……KOOLだ、KOOLになれ蔵臼ッ……!!)
―――今朝家を飛び出す朱志香から、玄関先で「父さんにだけは教えておくね!」と告げられた爆弾発言。
引きとめる間もなく船着き場へと走り去っていった娘の嬉しそうな表情と、今日この日が若い男女にとってどんな意味を持つ日なのか、そして何より、自分がそれを黙っていたことがばれたらどんな惨劇に見舞われるか……そう考えると蔵臼の膝はがくがくと震え、今日と明日は何がなんでもこの秘密を守りぬいてやると固く誓うのだった……ああ情けないダメ亭主。
「うるさい!!(号泣)」
「え……? あなた誰と話しているんですか?」
「いやいやいや! こっちの話だからこっちの!!」
明らかに挙動不審な様子の夫に眉をひそめる夏妃だったが、ふと視線を向けた先の光景に目を丸くし……普段の彼女からは想像もできないほどに可愛らしい声で歓声をあげた。

「わあ、あなた……雪ですよ雪! 今日はホワイトクリスマスですね!!」
「ああ………東京だけじゃなく、この島にも降り始めたか。何年ぶりだろうか」
「……あっ! こうしてはいられません。
今日は郷田と一緒に、クリスマスケーキを作る約束をしていたんでした。それではあなた、今日の夕食は楽しみにしていてくださいね!!」
「あ、ああ………頑張ってな………」
「はいっ!!」

普段よりも数オクターブ高い声で元気よく返事をしたかと思えば、普段娘に注意していることなどまるで頭から抜け落ちてしまったように全速力で走り去ってゆく夏妃。そのハイテンションぶりに苦笑しながら、蔵臼は再びソファに腰をおろした。
―――――ぱらぱらと新聞をめくる音だけが、この広い部屋に静かに響いた。

「この家がこんなに静かなのは……本当に、珍しい」

普段は朱志香や夏妃、使用人たちの賑やかな声が絶えないこの右代宮邸も、普段の喧騒が夢のように消え去り……しんしんと積もり始めた雪景色を窓ガラス越しに見ていると、まるで世界に自分だけが取り残されたような寂寥感さえ抱いてしまう。無意識のうちにテレビのリモコンを手に取っていた自分に苦笑しながら、蔵臼は電源ボタンを押すことなくそれをテーブルの上に静かに置いた。
今この屋敷にいるのは、蔵臼夫妻とシェフの郷田、そして……右代宮家当主である右代宮金蔵の4人だけ。
朱志香はクリスマスということで本土に出かけ、帰ってくるのは明日。源次をはじめとした使用人たちは、早めの冬休みを取って帰省していた。1月1日には財界の要人を招いた新年祝賀パーティーが開かれるため、使用人たちはその前に休暇を取らなければならないのだった。病床の金蔵を置いてこの島を離れることに使用人の長である源次は猛反対したが、蔵臼と夏妃の『責任を持って看病するから』との言葉に折れて、彼の生まれ故郷である台湾へと帰国していった。シェフの郷田だけは、祝賀パーティーのための下準備が必要ということでこの島に留まった。だから……今この島にいるのは、たった4人だけというわけだ。

「まあ、こんなクリスマスもいいか………たまには」

そう呟いた彼の目は、吐き出した言葉の明るさとは裏腹に、そっと伏せられていた。

1986年10月の、右代宮家親族会議。
6年振りにこの島を訪れた青年の存在が、淀んだ霧を振り払ってくれたのか。
この島を見守っている黄金の魔女が、ついに業を煮やしたのか。
いがみ合っていた兄弟たちは心の内を吐露し、失われていた家族の絆が再生した。
抱えていた金銭的な悩みなど、団結した兄弟の敵ではなかった。
魔術に狂っていた当主はかけがえのない家族を思い出し、涙を流した。
若者たちは己の人生を貫き通すことを誓い、この島からまた旅立っていった。
すべてが良い方向に向かっていた。右代宮家の新たな歴史の1ページが、この親族会議をきっかけにして記され始めた。
―――それを、右代宮蔵臼は彼らの輪の外から眺めていた。





電話の音が、遠慮がちに静寂を乱した。

「――――――もしもし」
『おう、兄貴か! そっちも降ってるか!? こっちも外は大雪だぜ〜。
縁寿やら真里亞ちゃんやらが大はしゃぎでさ、こっちまで雪合戦やらかまくらやら付き合わされちまって……はっくしょい!!』
「真里亞ちゃんか……一緒にパーティーを?」
『楼座たちだけじゃねえぜ! 姉貴たちや紗音ちゃんも一緒に来ててさ、派手にパーティーするところなんだ!!』
「そうか。それは楽しそうだな」

電話越しにも伝わってくる、温かく明るい雰囲気。今は、縁寿と真里亞が歌を歌っているようだ。時折電話口の留弗夫の声すらかき消してしまうほどの賑やかな歌声が、聞いている蔵臼の耳も暖めてくれたように感じられた。

『おう! そんでさ、親父の容態はどうだい? 変わりはないか?』
「あ、ああ……当分は大丈夫だ。だから、心配せずにクリスマスパーティーを楽しみたまえ」

今年いっぱい、もつかどうか。
南條から告げられた残酷な、でも間違いようのない現実。
蔵臼は一瞬だけ逡巡してから、その現実を覆い隠した。
折角の楽しいパーティーに水を差したくないという判断が……また、彼に隠し事をさせる。もうこれ以上、兄弟に嘘はつきたくないのに。

『そっか……じゃあ、親父に伝えてくれよ。正月にそっちに帰るまでくたばるんじゃねえぞ、ってな。そんじゃ兄貴、この辺で』
「留弗夫、オマエは―――――――――」
『ん? 何だ? 周りがうるさくてよく聞こえなかった。もう一回云ってくれ』
「いや……………なんでもない。では留弗夫、また正月に。よいお年を」
『おう、兄貴もな! 親父と仲良くしろよな! そんじゃ、よいお年を〜』


電話が切られたこの部屋が、先刻よりもずっと寒々しく感じられた。
魂すら凍りついてしまいそうな静寂が、彼の全身に突き刺さった。
だから蔵臼はこの部屋を衝動的に飛び出し、荒々しく階段を駆け上っていった。
『オマエは、母さんのことを憶えているか』
その言葉を再び弟にぶつける勇気は、今の蔵臼にはなかった。




「…………………………………」

右代宮金蔵は、天井の一点を見つめたまま静かにその体を横たえていた。
微かに上下する痩せ衰えた胸と、時折ぎょろりと動き瞬きをする目。かろうじて彼がまだこの世界に留まっていると判断できるのは、たったそれだけしかなかった。数か月前まで己の足で地面を踏みしめ、容赦なく息子たちを罵倒したあの面影はまるで嘘のように消え失せ、其処にいるのは死をただ待つだけの年老いた男だけだった。10月の親族会議で家族と和解できたことで気が抜けたのか……それ以降彼の癌は一気に進行し、今では痛み止めで苦痛を和らげることしかできなかった。だが彼はこの屋敷を離れることを頑として拒絶し、この島で死ぬことを望んでいる。
だがその表情は苦悶や絶望からはほど遠く、満足そうな微笑すら浮かんでいる。それは、彼が己の生を全うしたからなのか、或いはもう自分には何もできないという諦念から来る笑みなのか、何十年来の友人である南條や源次ですらも判断できないだろう。願わくば、それが前者であることを願うことしか。
彼自身、自分の「残り時間」を十分に理解しているのだろう。或いは、南條自身が直接告げたのかもしれない。無二の親友である南條になら、その権利はあると蔵臼は思った。
―――仁王立ちの姿勢のまま、父親を見下ろしながら。

「蔵臼………座ったらどうだ」
「……………………」

蔵臼は、答えない。
痰が絡んだらしく、ごほごほと咳きこみながら視線で椅子を勧める父を一顧だにせず、蔵臼はただ金蔵を見下ろした。其処に、何がしかの感情は読み取れない。金蔵はもう一度言葉を発することを諦めると、蔵臼から視線を逸らして窓ガラスに向けた。


「雪か……こんな島に珍しい。何時か………ベアトリーチェと一緒に見て以来かもしれぬな………ごほっ!」
「……………………」
「戦人たちは……元気か? ふふっ、孫が……これほどまでに、可愛い、とはな………。もっと早く、気付いておれば………」
「……………………」
「あと一週間で、今年も終わりか………新年のパーティーには何としても出席せねばならぬな。蔵臼……オマエを正式に後継者として、ごほっ、発表せねば……ならぬからな……!」
「……………………」


息子は、必死に言葉を振り絞る死の間際の父を、ただ黙殺した。
返事をすることも、手を握ることも、相槌を打つことさえも。
それすら、今の蔵臼にとっては赦しがたい行為に思えたから。
何時の間にか拳を固めていた蔵臼の顔が震えているのを、彼自身自覚してはいなかった。
………金蔵の言葉は、まだ続いている。
その言葉をねじ伏せるようにして、蔵臼は声を絞り出した。


「お父さん………もし、もしクリスマスの願い事がひとつだけ叶うなら…………何を願いますか?」
「……………………………………」


今この瞬間まで、蔵臼は父を信じていたのだろう。
否、信じようとしていたのだろう。
自分の思い通りに生き、家族に背を向け、欲望のままに突っ走った父親。
せめて最期くらいは、人間らしい言葉で。感情で。謝罪で「……………ベアトリーチェに、会いたい」








轟音が、死の匂いに包まれたこの部屋に木霊した。
冷たい冬の風と雪が、突然吹きこんでくる。
ガラス片で血塗れになった右拳をかばうこともせず、蔵臼は金蔵を睨みつけた。


「最期まで……最期までそれか。
ベアトリーチェ、ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!! もううんざりだっ!!
オマエの人生、それだけなのか!! オマエを最期まで信じ、傷つきながら死んでいった人のことを……母さんのことを!!
オマエは最期の最期、まで…………………!! どうして………そんな、に!!」
「…………………………」


涙は、流さなかった。
その代わり、蔵臼の心が泣いていた。
数十年分の想いとともに。
ぽたぽたとこぼれ落ちる赤い液体が、涙の代わりに床に大きな染みを作っていった。
きっと、留弗夫や絵羽たちは知らないのだろう。彼らは、あまりにも幼かったから。物心ついたときから、右代宮金蔵は「あの」右代宮金蔵になっていたから。
しかし、蔵臼は違う。父親が豹変したこと、愛する母や自分に暴力を振るうようになったこと……すべて鮮明に憶えている。体と心の両方に刻まれた痛みと共に。そして母親は金蔵から労いの言葉ひとつかけられることなくこの世を去った。どれだけ悲しかっただろう。どれだけ無念だっただろう。その痛みを、その無念を、蔵臼は一日たりとも忘れたことはなかった。何時か、何時の日か………父の口から謝罪の言葉が聞けると信じて生きてきた。必死に、右代宮の名前を背負って生きてきた。10月に父が改心した時は、本当に嬉しかった。母への謝罪の言葉と、母への愛情を見せてくれる……蔵臼はそう信じ、期待していたのだ。しかし、金蔵は蔵臼の望む言葉を発することはなかった。留弗夫たち子供や譲治たち孫への接し方は別人のように柔らかくなっても、蔵臼にだけは厳しい眼差しは変わらなかった。蔵臼の期待は、この2カ月あまりで急速にしぼみ、失意の日々を再び過ごしていたのだった。
そして今日、改めて父の死が間近に迫っていることを実感し、一縷の望みを託して蔵臼は父に問いかけた。
―――その答えは、最悪の形で蔵臼の最後の希望を打ち砕いた。


蔵臼の右拳が、再び振り上げられる。
今度は窓ガラスではなく、ただ死を待つだけの老人の顔に、正確に、狙いを定めて。





「あなた………やめてくださいっ!! 手が血だらけじゃないですか…………どうして、こんなことを!!」
「其処をどけ、夏妃……! 
遅かれ早かれこいつはもう死ぬんだ!! だったら、だったら俺がこの手で殺してやる!! 母さんの無念を、せめて最後に……!! 其処をどけ、夏妃いいいいいいっ!!」
「あなたっ!!」


乾いた音が、またこの部屋の静寂をかき乱した。
………じんじんと痛み始めた頬の熱が、蔵臼の感情を逆に冷まさせたようだ。
平手打ちの姿勢のまま蔵臼と金蔵の間に立ちはだかっていた夏妃も、それを察知して表情を崩した。
そして、だらりと下ろされた夫の手をそっと掴むと。

「……細かい破片が、いっぱい刺さっていますね。とりあえず、綺麗に洗いましょう。
南條先生には申し訳ないですが、念のため診てもらいましょう。多分この天候でしたら空港で足止めになっているでしょうし」
「すまない、夏妃………頼む」
「まったくもう……痛いなら最初からそんな馬鹿な真似はしないでください。結局後始末は私がやることになるんですから……!!」
「痛っ………! まったくだ。すまないな、夏妃」

もう謝らなくてもいいですよと、あきれ顔で首を振る夏妃。ようやく痛みが襲ってきたのか、顔をしかめて悶える蔵臼を支えるようにしてこの部屋を出て行こうとする。

「お父様……窓の修理に、またすぐ伺います。申し訳ありませんが―――」
「うむ……気にせずともよい。蔵臼の手当てを、頼む」
「はい。では後ほど」

蔵臼に肩を貸しながら、夏妃は一礼して金蔵の部屋を後にした。
金蔵の視線は、蔵臼の背中に注がれていたが……蔵臼が振り返ることも、言葉を発することもなかった。

「ほっほっほ………怒りにまかせて窓ガラスを破るなど、蔵臼さんはまだまだお若いですなぁ。まあ、こんな死にかけのジジイから若いと誉められても嬉しくはないでしょうが」
「南條先生……いや、本当に申し訳ありません」
「いえいえ、こちらも今晩は空港で寂しいクリスマスかと落ち込んでおりましたからな。このお屋敷で豪華なクリスマスディナーとしゃれ込むのも悪くない……いやいや、むしろ大歓迎でしたからな!」
「「本当に申し訳ありません」」

蔵臼と夏妃の言葉が重なり、本当におふたりは似た者夫婦ですなとからかわれた彼らは一層その顔を赤く染めて俯いた。もうお世辞にも若いとはいえないほどに人生を積み重ねてきた彼らだが、南條やこの場にいない使用人の熊沢には何時も子供同然にあしらわれてしまう。まだまだ精進が足りないと、この似た者夫婦は体を縮こませてまた同時に反省するのだった……。
―――蔵臼の右手を包帯で巻き終わった南條が、世間話でもするように口を開く。
だから蔵臼も夏妃も、心を構えるのが遅れた。或いはそれこそが、南條の狙いだったのかもしれないが。

「蔵臼さん………金蔵さんに代わって謝らせてください。
あの人のベアトリーチェへの執着は、やっぱり死ぬまで治らなかったみたいですな。私も、若い頃はそのことで何度も大喧嘩したものですが……結局、あの人の想いは消えなかった。それで、あなたのお母様やあなた自身も大変なご苦労をすることになった。くされ縁とはいえ、あの人の友人として、謝らせてください」
「そんな……先生が謝ることではありませんわ」

恭しく頭を下げた南條に、頭を上げてくださいと困った声を出す夏妃。蔵臼は……力なく床に座り込んだ姿勢で、力なく俯いたままだった。先刻のような感情の迸りは影をひそめ、今は無力感だけが今の彼を支配しているように思えた。金蔵が母親のことを何にも感じていないことを思い知らされ、打ちひしがれた様子で俯いている。長年連れ添ってきた夏妃でさえ、ここまで落ち込んだ夫を見るのは初めてのことだった。事業に失敗した時も、小さくない額の借金を背負った時も、娘の奔放な言動に頭を痛めた時にも……ここまでショックを受けたことはなかったのではないか。そう思うと夏妃は、蔵臼の抱える傷の深さに心を痛めると同時に、この姿を今まで見せてくれなかった夫に対し恨みごとのひとつでもぶつけたい衝動にかられるのだった。
………南條の言葉が続く。

「ですが蔵臼さん。金蔵さんがあなたやお母様のことを何とも思っていなかったということは決してありませんぞ? いえ、10月に右代宮家の皆さんと仲直りされてから、あの人はずっとあなたに謝りたがっていました」
「どうして…………そう云い切れるのですか?」

南條の言葉に、怒りすらこもった調子で蔵臼が問い返す。
無責任なことを云うな。あの男がそんなことを考えるものか。
その考えが、鋭い視線となって南條を射抜いたが………それらをすべて受け止めて、南條は穏やかな口調のまま言葉を繋げた。

「どうしても何も、金蔵さんご自身から聞かされていたからですよ。まあ、このことはあなたには云わないでくれと口止めされていましたが、この際構わないでしょう。
あの親族会議でで戦人さんたち、そして絵羽さんたちと仲直りをされてからも、金蔵さんはずっとあなたのことを気にかけておられたのですよ。蔵臼には一番迷惑をかけた、今更どの面を下げて謝ればいいのか解らない。亡くなった妻にも申し訳がない……この2カ月間、あの人は口癖のように話していました。その気持ちをそのまま伝えればいいじゃないかと何度も云ったんですが……蔵臼さんもご存じの通り、あの人は弱い人なのです。くだらないことにはよく口が回るくせに、本当に大切なことには口を噤んでしまう。
金蔵さんを許せとは云いません。ただ、あの人がそういう思いを確かに持っていたということ。それだけは、忘れないでいただきたいのです」
「あの人が……………そんなことを」

信じたい気持ちが半分、信じられない気持ちが半分。
南條の言葉を聞いても、蔵臼は金蔵への思いを改めることはできなかった。
この数十年を、たった2カ月で償えるものか。償われてたまるか……!
頑なになってしまった心は、容易に溶かすことはできない。
それが右代宮の数十年であり、蔵臼が苦しみ続けた歳月の重みだったから。だから南條もそれ以上は何も口にせず、ただ優しく頷く以上に踏み込むことはなかった。
………また重苦しさを増し始めた空気を変えようと、夏妃が思い出したように立ち上がる。

「ああ、そういえばそろそろ夕食のお時間ですね。郷田にケーキ作りを任せっぱなしにしていました。最後の仕上げに行ってきますね」
「ほっほっほ……それは楽しみですなぁ。では私は、もう一度金蔵さんの様子を見てくることにしましょうか。それでは後ほど」

ふたり同時に立ちあがり、リビングを後にする。
そして、蔵臼だけがこの部屋に残された。

「――――――――ちくしょう」

行き場のない感情を持て余したまま、残された左手を握り締める。
どの面を下げて謝ればいいのか解らない? 申し訳なくて言葉にならない?
ふざけるな……ふざけるな、右代宮金蔵っ!! 
最期の最期まで私は……俺はあんたに振り回されるのか!
そんな気持ちなんていくら抱えていても、人には伝わらないのに……その口で、その態度で示さなければ、他人には決して伝わらないのに!! 最期までそれをせずに、『理解してほしい』? ふざけるな、冗談じゃないっ!! 
俺はまだいい。まだこれからの人生がある。でも、母さんはもう、何をすることもできない!! オマエに人生を狂わされたまま、他の女に狂った夫を見ながら……死んでいったんだよ!! 

「もし、もし……サンタクロースがいるなら、私の願いを叶えてくれるなら………あの男を、右代宮金蔵を……地獄に落としてくれ。
落としてくれよ、頼むから…………!!」

最後は、振り絞るような声で叫んだ。
か弱く、細い叫び声をあげた蔵臼の姿は、今にも消えてしまいそうなほどに小さかった。
……さらに大きな叫び声が、蔵臼の耳朶を激しく打ちつけた。


「蔵臼さんっ………早く、金蔵さんの部屋へ! 金蔵さんの、容態が……急変、しました!!」
「え………?」


転がるようにしてリビングに駆け込んだ南條は、今までに見たことがないほどに血相を変えていた。
こんな時だというのに、それが妙に可笑しくて。
蔵臼は唇の端だけを歪め、卑屈な笑顔で南條を出迎えた。




ぜえぜえと荒い呼吸。
土気色に変色し、生気のない表情。
ベッドの上に横たわっていたのは、今まさに死を迎えようとする人間の姿だった。数日後や数時間後ではない、今、この時に命の灯が消えようとしている、人間の。
夏妃がベッド脇の椅子に腰掛け、金蔵の手を握っている。
南條が励ましの言葉をかける。
………それ以外に、彼らができることは何もなかったから。
医療器具が全くないこの部屋で、彼らができることはそれだけだった。後は、痛みを和らげるためにモルヒネを注射すること。それすらも、今この時に至っては無意味なことだった。先刻破られた窓ガラスは、既に張り紙で塞がれていたが……それでも、隙間からひゅうひゅうと冷気が入り込んでくる。ああ、まだ雪は降っているのだなと、蔵臼はひどく場違いな感慨を抱きながら、死にゆく父の元へと歩みを進めた。

「金蔵さん、解りますかな? 蔵臼さんですよ! あんたが誰よりも謝りたがっていた、蔵臼さんが来てくれましたよ!! ほら、さっさと目を開けて、あんたの口から云うんですよ!!」
「ぅ……あ…………」

かすかに、金蔵の目が開く。
蔵臼は数時間前と同じく、金蔵を見下ろす形でベッド脇に立ち尽くした。
―――もう、意味のある言葉を繋げることすら、今の金蔵には不可能だった。
蔵臼に視線を注ぎながらも、言葉にならないうめき声を何度も上げ……涙を流した。
それを見下ろしながら、蔵臼は思う。
この人の人生は幸せだったのだろうかと。
最愛の女性を早くに失い、それからの数十年をその女性の面影を追い続けることに費やした人生。経済的な成功を収めながらも、決してその心が満たされることのなかった哀れな男の人生。そして自分は、その男の血を引き継いでいる。自分は、この男を笑えるだろうか。ざまあみろと、惨めな最期だと、この男を笑えるだろうか。父の操り人形として長い時間を生きた自分が。父の影に怯え続け、父のために生きた自分は、本当に人生を生きていると云えるのか。何時かこの男と同じ処へ旅立った時、人生という名の旅を終えるそのとき、自分はあんたと違って人生を精一杯生きたと、胸を張って云えるだろうか? 
………何時の間にか、夏妃に代わって金蔵の手を握り締めていた。
励ましの言葉はなくとも、悲しみの涙はなくとも。
息子は確かに父の手を握り、父は残された力を振り絞って息子の手を握り返した。





金蔵の目が、大きく見開かれた。
視線が蔵臼から外され、宙の一点に注がれた。
金蔵の口が開かれ、歓喜をもってその名が告げられた。


「ベアト………リーチェ……………そこ、に…………いたの、か…………………!」
「―――――――――――」


蔵臼は歯を食いしばって、胸の痛みに耐えた。
いまわの際に父が望み、名を呼び、そして見えたのは……ベアトリーチェ。ベアトリーチェ・カスティリオーニ。その思い出。最期の最期で、死にゆく人間に与えられたささやかな奇跡。それは、やはり彼女の幻影との再会だったのだ。
蔵臼にとっては最も呪わしく、憎い相手。母の敵(かたき)。
………もういい。もういいんだ。
そう思うのは、今、この時で終わりにしよう。
そうでなければ、自分の人生を進めることができないから。
いなくなった人間の影を追うことは、もうやめよう。此処で、終わりにしよう。
自分には、愛する家族がいるから。だから、もう立ち止らない。
さよなら、父さん。


「―――、く、ら…………うす………………すまな、かっ……………………た」
「…………………っ!!」


だらりと、父の手が息子の手から離れた。
見開かれた目が、そっと閉じられた。
脈を確認した南條が、静かな声で蔵臼に告げた。

「……………ご臨終です」

南條の声が、蔵臼の耳に静かに届いた。




「最期に……母と、私の名前を呼んでくれたんです。だから…………許そうと思います。父のことを」
「そうしてあげてください。きっと金蔵さんも、あの世であなたのお母様にこってりと絞られることでしょうからな。さんざん浮気に走った罰を早速受けておられることでしょうな。ほっほっほ……!」
「そうですね。そうだといいですね」

南條の言葉に、蔵臼は素直に微笑んだ。
今この部屋にいるのは、南條と蔵臼のふたりだけ。夏妃は、金蔵が亡くなったことを留弗夫たちに伝えるために一階に降りている。恐らく、源次たちや取引先にも電話を掛けているのだろう、なかなかこの部屋に戻ってくる様子はない。
右代宮家当主、右代宮金蔵の死去。まさに、経済界を揺るがす大ニュースである。これは明日から忙しくなりますねぇと軽口を叩く蔵臼を見て、安心した様子の南條。事実、今の蔵臼はこれまで抱えていた荷物を下ろしたかのように晴れやかな表情を浮かべていた。彼にとっては傷口でしかないはずの昔の話も、今となっては思い出として受け止められているようだ。これなら右代宮家は安泰ですなぁと、南條は金蔵の遺体に向けて微笑むのだった。

「それで……朱志香ちゃんにはもう話したのですかな?」
「ああ、そういえば………夏妃には内緒でしたが、実は朱志香は嘉音……いや、嘉哉くんとデートに出かけておりましてな。朱志香から連絡先を聞いておりますので、これから電話を掛けてきます。
しかし、せっかくのお泊りデートを邪魔するようで気が引きますな………」
「いや〜、若いというものは素晴らしいですなぁ!!」
「まったくです。いえ、私としては、嘉哉くんに頑張ってもらって、その……子供なんかできちゃったら嬉しいなぁと思っておるんですよ!! 孫………可愛いんでしょうなぁ……」
「ええ、可愛いですよぉ、蔵臼さん………何かこう、知らず知らずに目じりが下がってきますからなぁ……」
「いいですなぁ……」
「いいですよぉ……」

顔面が崩壊する寸前までにやけ面を晒している中年男ひとり、老人ひとり。
その背後に人の気配がすることなど、知る由もなく。


「朱志香がお泊りデートですか? 初耳ですね。
私の記憶に間違いがなければ、お友達と泊まるだけと聞いていましたが? そしてあなたはそれを知っていて私に隠していたということですね?」
「な……………夏妃……………」


蔵臼の気持ち悪いにやけ面が、一瞬で凍りついた。
その背後に仁王立ちする声の主が誰なのか、考えるまでもない。

「で、では私はいったん下に降りていますので……失礼」
「南條先生それはずるいですよ!!」
「黙らっしゃーい!! ふたりともそこに正座しなさい!! 
………あなた、これはどういうことなのかじっっっくりと聞かせてもらいますからね!! 南條先生!! あなたも同罪ですっ!!」
「なんでわしまで…………とほほ……………」

惨劇を予感し、途方に暮れた顔でベッドを振り返る南條。
その視線の先では、横たわった金蔵。
心なしか、その表情には笑みが浮かんでいるように見えた。






<終わり>